このところ、官能小説を書きたいという方々からのご相談が相次いだ。まずは長編を一本書き、フランス書院やマドンナメイトへ投稿してみるようお勧めした。
完成した作品がないことには、編集者も評価のしようがない。
たとえ持ち込みでも、そこは変わらない。
プロットだけで出版が約束されるのは、ある程度実績のあるプロの作家だけである。
私も最初はBL雑誌への投稿から初め、講評をもらいながら2〜3作書き、2000年に雑誌デビューした。
官能作家になったのは、SNSでショートストーリーを書いていたところを、三和出版の編集さんにスカウトされたからだ。
三和の複数の雑誌に短編長編を何本か掲載してもらい、その後マドンナメイトの編集長を紹介して頂いて、2014年に紙の本でのデビューとなった。
6年前にもこのブログで取り上げたが、7月24日にお亡くなりになった森村誠一先生の「作家の条件」というコラムをご紹介したい。
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数年前、作家(小説家)志望の人口は五百万人と推定された。だれが、どのようにして推定したのかわからないが、かなりいいかげんな数である。だが作家予備軍が多いことは確かである。
(中略)
作家志望の動機として、生き甲斐、名声、富、生活、社会的ステータス、趣味、時間潰し、余生の筆のすさび等があるが、結局は表現本能に収斂される。すべては表現本能から派生したものである。
これを書かなければ生まれてきた意味がないというほどおもいつめて書いたものが作品として結晶し、読者に支持される。
(中略)
どんな動機から書いても自由であるが、利益を目的とするビジネスと異なり、まず表現欲ありきが作家志望の主流と言えよう。
(中略)。
文芸に限らず、すべての芸術作品は受取り手にある程度の素養を必要とする。その素養を前提としない面白さが通俗の面白さである。
その代表的なものにポルノとギャンブルと闘争がある。この三つの面白さには、読者に素養を求めない。そして、だれにでもわかる安易な面白さを維持できる。
(中略)
一般から遊離せず、また文芸と通俗の間に一線を画すものはなにか。それは作者の志であるとおもう。
読者に迎合した、読者の背丈以下の作品は、通俗に堕する。
読者の背丈以上、あるいは読者に対抗する作品は、読者との間に知的葛藤を生じて、読者の背丈や、知的面積を引き延ばす。
作者の志と独りよがりを混同すると、読者から遊離してしまう。
志は作者それぞれによって異なるが、志のある作品は風格があり、香りが高い。
志なき作品は下品であり、臭気を放つ。
(中略)
作家は自分の持てるものすべてを投入した作品(間接的属性)をもって読者に働きかける。つまり、自分自身の直接的魅力ではなく、作品による間接的なアピールであるので、作者本人は脱け殻のようになっていることが多い。
(中略)
年間五百人近く誕生する作家の中で、生き残っていくのは三人ないし五人と言われている。
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官能小説は、通俗小説の代表である。
通俗ではあるが、先生もお書きになっているように、
これを書かなければ生まれてきた意味がないというほどおもいつめて書いたものが作品として結晶し、読者に支持される。
この部分はどのジャンルの小説にも当てはまる。また、以下の部分。
志は作者それぞれによって異なるが、志のある作品は風格があり、香りが高い。
志なき作品は下品であり、臭気を放つ。
私は「志ある官能小説」を書きたいと思っている。読み捨てではなく「繰り返し読んで小説世界に浸りたい」と思っていただけるような官能小説である。
だが、これは私個人の信念であって、「背丈以下の通俗性こそが官能小説だ」と思う作家や読者がいてもいいわけである。
個人の好みなのだから、それはいっこうに構わない。
最後に、官能作家になりたいと思っている方に申し上げたい。
「こういうものを書きたい」と思ったら、まずは一本仕上げてみることだ。
書けば本になるのか、これで稼げるのかといった心配は後にして、「これを書かなければ生まれてきた意味がない」という思いをまっすぐにぶつけて書いて欲しい。
そのような情熱よりも、「これは割りに合う作業なのかどうか」が気になる方は、そもそも作家には向かない。